帝国日本の言語編制
― 植民地期朝鮮・「満洲国」・「大東亜共栄圏」 ―

安田敏朗
(京都大学人文科学研究所)

国際シンポジウム「言語帝国主義の過去と現在」 (1999年10月22日〜24日/於 日仏会館・一橋大学)

[目次]

[更新:1999-11-10]


発表要旨

近代「国語」あるいは近代「日本語」は、それを通用させようとした地域(植民地・「満洲国」・占領下東南アジアなど)と帝国日本との関係により、言語変種内部のあり方において、また当該地域の諸言語との関係においても、それぞれに異なった様相を示していた。「言語編制」とは「言語の社会的位置づけのあり方」を意味する筆者の造語であるが、それを用いれば、地域によって、あるいは時代によってさまざまな言語編制の構成を示していたのである [1] 。つまり、近代日本の国民国家形成における日本語の扱い(「国語」としての再編、「東亜共通語」としての対外膨張の伏線)や、異民族支配に際しての異言語・民族に対する日本語の位置づけ方、異言語との対峙・共存のあり方について、日本「内地」・植民地・「満洲国」・占領下東南アジアという地域ごとに偏差があった。そして日本語と諸言語そしてそれらの対抗関係について、地域・時期・論者ごとに様々な見解がもたれていた。その一方で共通するのは、日本語普及について疑問がはさまれていない点であり、日本語ないし「国語」の脅威のもとに晒される諸言語やその話者への配慮がなかった点である。

まず、「国語」および「東亜共通語」という概念を考えてみたい。この日本語に対する二つの見方のいずれを重視するかによって、各地域の言語政策のあり様をうかがうことができる。この両概念は、成立からみても相互補完的であった。文部省の国語政策機関に深く関わった上田万年の議論をおうと、近代「国語」とは国民全体に均質に流れる血液であり、その「血液」によって国民としての一体性を実感させるものとされた [2] 。「国語」には国民創出の役割とともに均質性・効率性を求める機能が要請されたのである。明治の初期にあっては統一した言語への要請があったが日本国が均質な言語空間としては認識され難かった(森有礼や馬場辰猪の議論 [3] )のに対し、上田が活躍しだす1900年前後にあっては均質な言語空間を創出する各種の装置(学校教育・法体系・電信・軍隊制度など)が確立・普及しはじめており、それら近代諸制度を日本語で担おうとしていた。新たな文体としての言文一致体が創出され、「標準語」としての基準が定位してくるのもこの頃であり、「標準語」の設定・「口語文法」の確立に貢献したのが上田を主事とする国語調査委員会[1902年〜1913年]であった。上田は「一国家、一民族、一言語」が日本国の特徴であるととらえ、それが近代化に有利であると考えていた。この国家と言語との関係、さらには近代制度を日本語で担い得たという自信(日本「国語」を通じて近代へ、ということ)は、植民地諸民族に日本語の普及を正当化する論理としてはたらいた。

また、「国語」の機能的側面を重視して国民創出機能を全面にかかげない場合、「東亜共通語」として日本語をとらえる主張となる。上田万年は1895年に「東洋全体の普通語」という表現でもって、異民族間の交際語たるべく日本語を位置づけようとしていた [4] 。この主張は、上田にしてみれば「国語」確立の方便として出したものであったが、それはとりもなおさず「帝国」の言語たる条件でもあるので、日本の帝国的膨張が続くと、この主張は普遍性をもつようになった。

日本の植民地においては「国語一元化」への力がはたらき、固有語の地位は徐々に低下していった。日本語の「近代」性の認識のもとで植民地を「一国家一言語」というモデルに組み込んだことにより、「国語」としての日本語普及が正当化されたのである。また朝鮮・朝鮮人は「不潔、柔惰、固陋、に流れ易き個性」をもっており、それを「文明の民」たらしめるのは日本の使命であるとも認識されていた [5] 。制度的には統監府時代から徐々に日本語の制度の中に朝鮮を取り込んでいったが、総督府時代にこの傾向は押し進められる。「併合」当時は緩やかな「同化」論が叫ばれたが、徐々に「内地」同様の言語規範の強制がなされた。これは日本の大陸侵略の程度と重なっていた。朝鮮語の地位を「国語」に対する「方言」の地位に落とし [6] 、さらに「国語」に一元化することで朝鮮語を自ら捨てるようにしむけ、「国語」を常用語化・生活語化させようとする主張もあらわれた [7] 。つまり、近代国民国家形成の過程で植民地として組み込んだ台湾や朝鮮では、日本語を排他的で唯一の「国語」として存在させ、最終的には「国語」(変種の存在すら許さない標準「日本語」を理想とした)のみが話される社会を構想していたといえる。1930年代から特に「国語一元化」への力がはたらき、固有語の地位は低下していったのである。

一方で朝鮮では国語意識の高まりからくる近代朝鮮「国語」獲得の試みがあったが、日本の言語支配により潰え去った。そのかわりに朝鮮総督府の学務官僚から京城帝国大学の教授となった小倉進平たちによって方言の調査や古文献による「朝鮮語」の通時的構築がなされていった [8] 。しかしながら、こうした活動とは別に、言語によって民族同一性を醸し出そうとする意識は植民地化された後も続いていた。これは朝鮮語の標準・表記法を定め、辞書を編纂し、ハングルの普及運動を行なった朝鮮語学会の活動に顕著である。異なる民族を想像させる手段として朝鮮語を用いているとして後にこの学会は治安維持法違反として会員が検挙される。朝鮮の言語支配とは制度をどの言語に担わせるかの戦いでもあった。

「満洲国」にあっては「国語」というよりも「共通語」として日本語をとらえていた。しかし、1932年の「満洲国」建国から1937年の治外法権撤廃までは、あまり積極的な日本語の普及は行なわれない。それは日本人教員数の絶対的不足などの要因があった。軍閥時代や中華民国の時代に中国語による制度が確立していたため、その制度を突然日本語だけで運用するには困難が伴っていたからでもある。この点で「満洲国」ではある程度は固有語の地位も認められていたと考えられるが、日中戦争勃発を境として徐々に固有語の地位も徐々に低下していった。大陸進出を本格化していくなかで「満洲国」は日本化され、これと歩調を合わせ日本語の普及も積極性を持ちだす。日本側は建国イデオロギーの一つの「五族協和」を言語政策でも実行し、1937年前後から制度的に日本語の地位を引き上げていった。たとえば1938年の新学制においては三つの国語(「満洲語」=中国東北部で話される中国語、「蒙古語」、「日本語」)の一つとして日本語を位置づけた。そして行政・司法・教育・通信などの国家運営の基幹部門で優位な位置を占める政策をとった。この点は「満洲国」の傀儡性を示す一方で、制度的裏づけによってのみ日本語を権威づける他はない普及度・認知度の低さをも示している。一方「五族協和」イデオロギーと諸言語の関連については、1943年の学制改正によって「五族」に含まれる朝鮮民族の言語は次第に教育の場から追放される。一方でロシア語の教育は保証されるという、このイデオロギーの矛盾が露呈する。「満洲国」では日本語で運営するしかない中央の世界と、中国語やモンゴル語でのみ運営される地方の世界とが存在していた。その乖離を受け日本語の広範な徹底普及を一時的に放棄して、「満語カナ」という中国語をカタカナで表記する計画を実行した。この案は、満洲国民生部国語調査委員会の手で研究され、1944年に公布される。表記をカタカナにすることで低い識字率を高くし、カタカナに親しませることで日本語の学習を容易にしようという隠れた日本語普及のシステムでもあり、日本語の影響下に当該地の言語をおこうとする意図のあらわれでもあった。この点に、植民地で異民族を抑圧してきた「国語」を「共通語」にする際の対応の仕方をみることができる。

そして「東亜新秩序」から「大東亜共栄圏」へと日本を中心とした新秩序体制を構築する際に、日本語は実体としての「東亜共通語」という位置が与えられていった。そのあり方は植民地的言語同化は意図しないがリンガフランカとしての無闇な変化、日本語のピジン化には歯止めをかけようとする意味での「共通語」であろうとしていた。

また、占領下東南アジアにおいては、軍部の意図や戦略・戦況に左右されながら、各地域で一地域一言語という原則がとられ [9] 、戦略的重要性による地域差はあるが「固有語」によるナショナリズムへの配慮を多少見せた [10] 。たとえばフィリピンではタガログ語と日本語を公用語とするという規定が当初出される(英語も当分の間使用を認めるというただしがきつきではあったが。しかし1943年のフィリピン「独立」後には日本語を公用語とする規定はなくなる)。また蘭印ではインドネシア語の教育とセットの形で日本語を教える教育体系をつくった(むしろこれはインドネシア語の普及に役だった側面の方が大きいようだ [11] )。ともあれこれは旧宗主国ヘゲモニーから離脱させるためのある種の懐柔策と考えられる。これら諸地域間の交流言語として、また日本との連関を保たせるという意味で、日中戦争勃発以降実体化してきた「東亜共通語」としての地位を、日本語に与える政策がとられた。それに伴い、表記法や表記文字も含めた「基礎日本語」の議論も、日本「内地」での日本語の整理の問題とも関連して、活発になった。これは、普及の便宜を考えると、より簡素化された日本語の方が効率的という認識があったためでもある。ただし、1943年の内閣情報局「ニッポンゴ」(情報局300語)に結実したきわめて簡素化された日本語の場合 [12] であっても、それを「純正日本語」にいたる前段階ととらえていたように、非母語話者で完結する日本語の形態を認めなかった。それはつまり、日本語を通じて「日本精神」を伝えるという大前提があったためで、「不純な」日本語ではその任に堪えられないという認識があったためと思われる。しかし、表記に手を加えることが国体への手入れと等しいといった論調があった一方で簡易化の論議が起こりえたのは、日本語の広範な普及に「世界性」を見いだす立場があったためである。一方に日本の「伝統」に向かう言語観があったとすれば、同時代的な普遍性に基づいた言語観との、いわば二つの「国粋」が占領下東南アジアまで視野に入れた日本の言説の場でせめぎあっていたのである。また、「内地」や植民地にあっては、引照基準をどこに求めるかの違いで、「国語国字論」や標準語論・方言論・標準語教育論などのあり方も大きく異なっていったのである [13]

占領下東南アジアにおいては、植民地の場合と異なり、日本語によって「近代」を示しえなかった。これは占領した時期の国際関係といった問題もあるが、すでに旧宗主国によって「近代」が示されていたためでもある。そこで西欧近代に対抗するために「日本精神」・「天皇の御稜威」を持ちだした。そしてこのこと日本語でのみ理解が可能なのだという論拠で日本語学習を奨励していったのである。したがって、植民地には比較的簡単に押しつけられた「近代」を担う言語としての日本語という側面よりも、「日本精神」や「天皇の御稜威」が、日本語のもたらすものとして強調される他なかったのである。

このように「東亜共通語」としての機能性を求めると同時に、日本語には宮城遙拝や国旗への敬礼などと似た儀礼としての役割をも要請していったわけであり、この点に普及のおのずからなる限界が潜んでいたのである。

最後に、日本の言語編制のあり方を、地域ごとにきわめて乱暴にまとめれば以下の通り。

ZU - Nihon no gengo hensei
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[注]

  1. 詳細な議論および文献・資料については、拙著『帝国日本の言語編制』世織書房、1997年を参照
  2. 上田万年「国語と国家と」『東洋哲学』1巻11号,12号、1895年1月,2月
  3. イ・ヨンスク「森有礼と馬場辰猪の日本語論 ― 「国語」以前の日本語 ― 」『思想』795号、1990年9月参照
  4. 上田万年「国語研究に就て」『太陽』1巻1号、1895年1月
  5. たとえば李王職次官であった小宮三保松の「併合の目的は同化に在り同化せんとせば先づ彼我親善融和せざるべからず」『朝鮮』(京城朝鮮雑誌社)43号、1911年9月1日
  6. 「朝鮮語方言化」論は、村上広之「植民地における国語教育政策 主として朝鮮語方言化、国語標準語化について」『教育』(岩波書店)6巻6号、1938年6月を参照
  7. 「国語一元化」が朝鮮人の「福利」であると主張したのは、京城帝国大学教授の国語学者時枝誠記であった。時枝誠記「朝鮮に於ける国語」『国民文学』3巻1号、1943年1月。時枝がこのような議論を可能にしたのは、彼の言語過程説における「主体」抽出がきわめて恣意的になされているためであった。前注の「朝鮮語方言化」論も含めて詳細は拙著『植民地のなかの「国語学」 ― 時枝誠記と京城帝国大学をめぐって ― 』三元社、1997年を参照
  8. 詳細は拙著『「言語」の構築 ― 小倉進平と植民地朝鮮 ― 』三元社、1999年を参照
  9. 占領下東南アジアにおける教育施策についての総合的な研究は、石井均『大東亜建設審議会と南方軍政下の教育』西日本法規出版、1994年を参照
  10. 帝国中央の施策としては、1942年に官制公布された大東亜建設審議会の第二部会(文教施策)の答申「大東亜建設ニ処スル文教施策」がある。そのなかの「大東亜諸民族化育方策」には「現地ニ於ケル固有語ハ可成之ヲ尊重スルト共ニ大東亜ノ共通語トシテノ日本語ノ普及ヲ図ル」という文言がある。
  11. インドネシア国立公文書館編著、倉沢愛子・北野正徳訳『ふたつの紅白旗 ― インドネシア人が語る日本占領時代 ― 』木鐸社、1996年に収録された聞き書きを参照
  12. 助詞はト、ノ、カ(疑問)、ナ(禁止)のみ。助動詞はないので動詞は活用しない。否定形は、動詞終止形+ナイであらわしたものと思われる。
  13. たとえば、「内地」だけで考えれば教育の現場での方言の尊重という見方もでていた。しかし植民地にあっては、「正統な」国語の確立と確実な教授が要請されていた。それは帝国内部への求心性を示すと同時に「大東亜共栄圏」大での遠心性をも持っていたことを示している。詳しくは拙著『<国語>と<方言>のあいだ ― 言語構築の政治学 ― 』人文書院、1999年を参照

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