イメージと〈沈黙〉 ―画中詞の視覚性を手がかりにして―

宮腰 直人
(立教大学大学院)

日仏会館セミナー <テキストとイメージ> 2000年11月25日研究会発表予稿

[セミナー日程]

[更新:2000-11-13]


発表要旨

 中世から近世にかけて、物語を主題とする絵巻・絵本が数多く制作される。その中には、絵の中にことばを添えるものがあり、添えられたことばは画中詞と呼ばれる。通常、絵巻は物語内容を記した詞書(本文)と絵(イメージ)を交互に構成することで、物語を展開していくわけだが、絵の中のことばである画中詞は、ちょうど、詞書と絵の中間に位置することになる。

 しばしば、現代のマンガの吹き出し等との類似が言及されるそれら絵の中の登場人物に付されたことばは、文学研究では、書承のために流動的になりがちな絵巻、絵本の本文を校訂する諸本研究の立場から専ら重視されてきた。その一方で、国語学的な立場からは、登場人物たちの動作にいきいきとした〈声〉を与える、台詞の画中詞が、当時の口語的な表現を反映しているとの指摘がなされている。また、それとはやや位相を違えるものの、歌謡、諺、故事といった口承と不可分にむすびつく言説が取り込まれていることも、基本的にそうした〈声〉としての画中詞の性格を裏づけるものといえる。

 しかし、画中詞に〈声〉を見出すとして、それが画面の中に書き入れられたことそれ自体への問いかけを隠蔽するとすればどうか。〈声〉と言いつつ、それが文字によってあらわされた〈声〉であることを忘れるのであれば、結局、「画中詞」と名づけられるゆえんの、画面の中にことばを記すこと、絵の中の文字の意義は、不問にふされたままだ。

 どんな文字でも視覚性を不可避に抱え込むが、〈声〉を装う画中詞の場合にもそれは例外ではない。鼠の「権の頭」と人間の姫君との異類婚姻譚である、お伽草子『鼠の草子』では、鼠の擬人化の助けるべく、鼠の〈声〉として画中詞が添えられている。この物語において画中詞は、単に擬人化の一つとして機能しているわけではない。「権の頭」が鼠であるその正体を明かされるとき、烏帽子や衣服を身につけるといったイメージの次元の擬人化と同じく擬人化を補完していたはずの画中詞もまた、イメージの次元でただの鼠として描かれるのと連動して、画面から消えることになる。画中詞(文字)の不在が、それまで画面を埋めていたはずの画中詞との落差をうみ、それがそのまま物語のクライマックスを作り出す。文字の視覚性が逆説的にこの場面の緊張感を支えている。

 記された画中詞が〈声〉であるとすれば、こうした画中詞の記されない画面は、単なる余白ではなく、〈沈黙〉として積極的に意味をもつのではないか。〈声〉を装う文字の視覚性とその反動としての〈沈黙〉を想定することは、ことばの意味にのみ回収されがちな画中詞を再び、画面の中に戻すことになるだろう。

 今回の発表では、画中詞の視覚性とその〈沈黙〉を手がかりにして、広く絵巻、絵本というメディアにおける絵とことば、そこに潜在する〈声〉と〈文字〉の位相を探ってみたい。


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