言語権 ― 近年の言語的人権の法的規定をめぐる諸問題

トーヴェ・スクトナブ=カンガス
(ロスキルデ大学)

国際シンポジウム「言語帝国主義の過去と現在」 (1999年10月22日〜24日/於 日仏会館・一橋大学)

[目次]

[更新:1999-11-10]


発表要旨

言語は今日、人類の歴史のなかでかつてないほど急速に殺戮されつつある。現実に即してみれば、楽観的に見積もっても、2100年ごろには今日話されている言語のうちの半分だけが生き残れるにすぎない。悲観的に見積もれば、100年後には世界の言語のうち90%が死滅するか、死滅寸前になる(つまり、もはや子供たちが身につけなくなる)かもしれない。今日の言語殺戮(language murder)をひきおこす最も重要な直接の要因は、メディアと教育制度である。間接的には、経済的・政治的な世界システムに罪がある。西洋世界は ―― 西洋以外の地域のエリートとともに ―― こうした事態にかなりの責任がある。

世界の言語のうちのほとんどは、比較的少数の人々によって話されている。一言語の平均話者数は、5000人から6000人ほどであろう。世界で話されている言語のなかで、95%は母語話者が100万人以下であり、50%は1万人以下の話し手しかいない。世界の言語の4分の1と手話言語のほとんどは、1000人以下の使用者しかいない。世界の言語のうち80%は民族に固有のものであり、複数の国にまたがって存在してはいない。

ヨーロッパは言語的多様性にとぼしい地域である。近年の移民を除けば、ヨーロッパには世界の言語の3%しか存在していない。パプアニューギニアには850以上の言語があり、インドネシアには約600の言語がある。この二国だけで、世界の言語の4分の1を占めている。200以上の言語が話される国はさらに7カ国あり、この9カ国で、手話もふくめて世界の言語の半分以上を占める。さらに、100以上の言語が話される13カ国を加えれば、この22カ国で世界の言語の75%を占める。そして、このうちヨーロッパの国はひとつもない。(ただしロシアをヨーロッパに入れなければの話だが)

この報告はふたつの関連した問題を論じる。第一に、なぜこうした多様性を保たねばならないのかという問題である。すなわち、言語の多様性と生物の多様性(biodiversity)、との関係とこれら両者への脅威についてである。言語と文化の多様性と生物の多様性(biodiversity)は密接に結びついている。一方の多様性が保たれれば、また他方も保たれるのだ。近年の研究によれば、この両者のあいだに相関関係があるという仮説を支持する証拠は増えつつある。さらに、この関係は相関的であるばかりでなく因果的でもある。このふたつの種類の多様性は、たがいがたがいを強めあい、支えあうからである。人間が何百万年にもわたって維持しつづけてきた環境との共生が、自然(と人間)が対応するいとまもないままに突然断ち切られるならば、そこには破局が待ちうけている。言語と文化の多様性は、歴史のなかで発展してきた知識にとっての宝庫である。そこには、繊細でこわれやすく生物的に多様な環境についての知識もふくまれている。ところが、来たる100年のあいだに、言語的な(それゆえに文化的でもある)多様性の50%から90%が殺戮されるならば、わたしたちの地球上の生存も危機にさらされることになる。地球はわたしたち人間を必要としないが、わたしたちは地球を必要としているのではないだろうか。生物の多様性(biodiversity)と言語的・文化的多様性のあいだの関連については、Terralinguaのウェブサイト<http://cougar.ucdavis.edu/nas/terralin/home.html>を見られたい。

つぎに人権に関する現在の法的規定を概観し、そこにどの程度言語的人権に関する規定 ―― とくに教育に関するもの ―― がふくまれているかを検討する。言語的人権は、言語の多様性への脅威を防ぐためにはぜひ必要なものである。ところが、現在の法的規定では、言語的人権が十分に保護されていない。言語的人権、とくに教育における言語的人権は、人権に関する法律のなかで、他の人間的特徴よりもずっとおざなりなあつかいしかうけていない。言語のことは序文でしか言及されていなかったり、言語に関する条文は他の条文よりも多くの制限がつけられていたりする。マイノリティ(かれらこそが世界の言語的多様性を守っているのである)の教育のなかでおこなわれているのは、国連の文書のなかで定義されている概念そのままの言語的ジェノサイドである。あらたな言語を身につけることで、今まで使ってきた言語を捨てるようなことがあってはならない。あらたな言語は話し手の言語的レパートリーに付け加わらなければならない。多様な母語を犠牲にして、リンガ・フランカもふくめてあらたな言語を学ぶようなことがあってはならないのだ。この意味で、「殺戮言語(killer language)」 ―― そのなかでも最も代表的なのは英語であるが ―― は、世界の言語的多様性をおびやかす重大な脅威である。言語的人権はいまだかつてないほど求められている。なによりも言語的人権が保証するのは、言語の取り替え(language shift)を強制してはならないということである。言語の点からみて、公式の教育は今日「ある集団の児童を他の集団に強制的に移行させている」(これは国連におけるジェノサイド犯罪の防止と処罰についての定義のひとつである)。報告のなかでは、いくつかの近年の実りある議論についても言及する。

詳細は、Skutnab-Kangas, Tove (1999). Linguistic genocide in education -- or worldwide diversity and human rights?, Mahwah, NJ: Lawrence Erlbaum Associates. を見られたい。わたしのウェッブサイト<http://babel.ruc.dk/‾tovesk>に論文の概要と目録を掲載してある。


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