日本の言語植民地主義 ― アイヌ、琉球から台湾まで

小熊英二
(慶應義塾大学)

国際シンポジウム「言語帝国主義の過去と現在」 (1999年10月22日〜24日/於 日仏会館・一橋大学)

[目次]

[更新:1999-11-16]


発表要旨

説明の前提として、まず日本の領有地域言語政策の特徴を述べる。

まず第一に、大日本帝国は、非常に短期間のうちに国民国家形成から帝国主義化して崩壊した国である。1868年の明治維新で近代国民国家形成に着手してから、20年ほどで近代西欧型の憲法を制定するまでに20年、その6年後には日清戦争に勝利して台湾を領有、さらにその15年後に朝鮮を領有し、その35年後には第二次大戦の敗北で帝国が崩壊する。この全過程は、80年にも満たない。

この結果、日本においては、国民国家形成と植民地領有が不分明のまま連続していた。当時の日本の政治家や知識人たちは、日本にとっての朝鮮や台湾が、イギリスにとってのインドのようなものなのか、それともフランスにとってのアルザスにあたるような存在なのかを論議したが、決着は曖昧なままだった。後発の弱小帝国主義の必然として、支配側と被支配側の「人種的」区分がたちにくい近接地域にしか進出できなかったことも、領有地域が国民統合の対象なのか否かを混乱させた。さらに言語についていえば、標準「国語」の制定作業以前に、領有地域への日本語教育を着手せねばならなかったという混乱を指摘できる。

近代日本の新規領有地域は、大きく二種類に分類できる。第一は憲法発布、すなわち一応の近代国家の制度が整う以前に領有された沖縄や北海道であり、これらは日本国の正規領土となり、住民は日本国籍と参政権を与えられ、内務省が管轄した。言語については、「国語」教育のみが行われている。第二地域は憲法発布から第一次大戦以前に領有された台湾や朝鮮で、これらは正規領土化され住民は日本国籍を付与されたが、参政権は与えられず、内務省ではなく総督府が管轄した。言語教育では、「国語」重視だが現地語教育も併用されている。第二は、もはや国際的に領土拡張が認められなくなった第一次大戦後に支配された南洋群島、「満洲国」、華北および南方の占領地域などで、これらはほとんど非正規領土であった。言語教育でも、「日本語の普及」にとどまっている。なお第一および第二地域では、日本語の正規領土の一部であることを意識させるため、「国語」という名称が正式であり、「日本語」という名称は禁じられていた。

日本の支配のもう一つの特徴は、「欧米」勢力にたいする、畏怖と劣等感の入り混じった対抗意識である。もともと日本の近代国民国家形成は、「欧米」勢力による植民地化の脅威に対抗するために行われたものであり、国防/軍事的性格が当初から強かったが、これが領有地域統治にも反映した。沖縄・北海道・台湾・朝鮮などは、いずれも当初から領有しても経済的利益があるのか疑問視されていた地域であったが、経済コストを度外視しても欧米の脅威から本土を防衛する前進防衛地帯として確保するべきだという論調が優勢だった。そのため統治方針においても、外国人顧問のアドバイスをはじめとした間接統治や慣習温存論を退け、原住民を言語的・文化的・思想的に「日本人化」し、忠誠心を獲得しようとする傾向が強かった。さらに、キリスト教をはじめとした「欧米」文化への警戒のため、原住民にたいする権威の拠り所として、日本が欧米から学んだ「普遍的文明」よりも、日本語の熟達度や天皇の存在を掲げる傾向が生まれた。

以上を踏まえ、沖縄/北海道と台湾の言語政策について述べる。

上記地域のうち、沖縄は明確に国民統合の対象地域として位置づけられた。もともと南方の防衛拠点として確保された沖縄では、経済開発や制度的平等が遅延する一方で(参政権の付与は他の府県にくらべ30年以上遅れた)、「国語」と天皇崇拝を中心とする教育政策が突出した。沖縄側でも、日清戦争で中国が敗北して以後、日本から分離する指向はほとんどなくなり、就学率が90%を越え、日本国内での社会的上昇と差別脱出のために、日本語を修得する指向が高まった。

北海道は北方の防衛拠点であったが、人口の大部分は和人の植民者が占めており、少数の先住民族であったアイヌが言語政策の対象となった。日本政府からすれば、彼らは政策的にはさほど重要な位置を占めず、保護対象として和人とは分離された特殊学校に入れられた。「国語」と天皇崇拝は教育されたが、教育政策に投入された予算や熱意は沖縄よりは低い。ただしアイヌにおいても、やがて日本国内での社会的上昇と差別脱出のために、日本語修得の指向が高まったことは沖縄と同様である。

台湾の場合、正規領土と植民地の中間的存在であり、integration と separation の折衷ともいうべき政策がとられた。すなわち、「国語」と天皇崇拝は教えられたが現地語教育も併存し、本国人とは分離教育され、制度的には修業年限は低く授業料も徴収される低度の教育制度が適用されたのである。教育を受けた世代では、通訳や日本企業の下請けといった職種に進む者が出ていったが、現地社会では日本語が役立たないため漢文教育のほうが人気がある状態が長く続き、また授業料の負担もあって就学率は容易に上昇しなかった。第二次大戦期になり、台湾人も「日本人」として国民軍に編入されたのをはじめ戦時動員の必要が強まるとともに、現地語教育の事実上の廃止と、制度的な統合教育の傾向が強まってから就学率は70%に達したが、間もなく敗戦を迎えている。

これらの地域において、日本語習熟度は文明化の尺度ともみなされたが、それと同時に、天皇崇拝の強さと並んで日本国家への忠誠心の尺度とみなされる傾向があった。第二次大戦の末期、沖縄に米軍が上陸し「南方の防衛拠点」という位置が現実になるとともに、日本軍が沖縄語で会話する者はスパイとみなし処刑すると布告したことは、象徴的である。

また日本の言語政策全体に及ぼした影響についていえば、台湾などへの日本語教育の必要から、「国語」を整備する必要が高まったことが挙げられる。日本語の表記方法(「かなづかい」)や文法、発音などを統一しなければ日本語教育が行なえないという要望は、台湾領有直後から現地の教員たちからあがっていたが、文部省が国語調査委員会を設置してそれらの問題を検討しはじめたのは台湾領有から7年後のことであった。また台湾では、本国よりも早く「国語」という科目が設置されており、一時は本国より急進的な言文一致体(発音と表記の一致をめざす書記方法)が日本語教育で採用されるなど、日本語教育の実験地となっていたことがうかがえる。

戦後への影響について言えば、台湾と朝鮮が喪失したあとも沖縄と北海道は日本領土として残留し、日本語の修得を社会的上昇と結びつける傾向は残りつづけた。また台湾領有後、日本精神は対訳不能であるという主張とともに初期に採用されていた対訳法教育が放棄され、フランスから学んだ直説法(direct method)が日本語教育に採用されたが、この直説法は現在でも外国人にたいする日本語教育の主流である。さらに、戦後の日本政府は戦前の日本語表記法を廃止し、より言文一致にちかい表記方法を全面的に採用したが、これが朝鮮での「国語」教育で実験的に使用されていたものであったことも指摘できよう。


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