フランス第三共和政の言語同化政策

三浦信孝
(中央大学)

国際シンポジウム「言語帝国主義の過去と現在」 (1999年10月22日〜24日/於 日仏会館・一橋大学)

[目次]

[更新:1999-11-10]


発表要旨

今年の5月7日フランスは欧州地域語・少数言語憲章に調印したが、6月15日憲法院は憲章は違憲との判断を下した。地域語・少数言語の承認は共和国の単一不可分性を損ね、「共和国の言語はフランス語」と定めた憲法第2条に抵触するというのがその理由である。この違憲判断により憲法を改正しない限り憲章に批准できなくなったため、憲章をめぐって地域語論争が起こり、過去のものと思われたフランス語一言語主義の根強さが改めて示された。中でも左のジャコバン共和主義者と右の主権至上論者がともに憲章への反対論を展開したのが注目される。市民の平等を至上価値とするジャコバン共和主義者は、地域語の承認は国民を複数の言語コミュニティーに分裂させるとして反対し、ドゴール的「フランスの偉大さ」に郷愁を感じる主権至上論者は国家の独立を維持し英語支配に抵抗するためフランス語の擁護を訴えた。両者に共通するのはアメリカの一極支配に対する反発である。しかしフランスのアメリカ帝国主義批判が有効であるためには、かつてイギリスに次ぐ植民地帝国を築き上げたフランス自身の過去と植民地主義イデオロギーが清算されねばならない。ところが欧州言語憲章への反対論は、近代国民国家建設の過程で抑圧された地域語の命運に思いをいたすどころか、地域語の振興を、英語支配に対するフランス語防衛の戦列を内側から弱める要因としか捉えない。フランスは国内でのフランス語一言語主義を改めない限り、外に向かっての多言語主義の主張は説得力をもたず、多言語主義は英語帝国主義に対抗する単なる方便としか受け取られないだろう。

フランス語はローマ帝国のガリア征服によって移植されたラテン語の一種のクレオール化から生まれた言語だが、ラテン語に代ってヴァナキュラー言語たるフランス語を行政裁判用語にしたのは、1539年のヴィレール・コトレの勅令である。王権の整備とともに他の方言を排除してパリ周辺のフランシアン方言が国語の地位を占めていった過程と、海外の植民地にフランス語を押しつけた言語帝国主義は一続きのものであり、ともにフランス語の普遍性イデオロギーに支えられた他者の言語の否定という同一のメカニズムによるものだった。王宮の言葉を話すことが洗練と文明化への道だとする思想は啓蒙の世紀の直線的進歩の思想によって補強され、形を変えてフランス革命に引き継がれた。地域語は無知蒙昧と反動思想の温床とされ、進歩と平等の言語フランス語が国民統合の中核に据えられる。革命下の 1790年にジャコバン司祭グレゴワール師が行った調査ではフランス語を満足に話せるのは人口の半分以下だったが、多言語社会だったフランスが言語的に統一されるには革命から1世紀以上を要し、第一次大戦後のことと言われる。フランス語の普及に大きな役割を果たしたのは学校と軍隊(兵役)であり、なかでも第三共和政前期にジュール・フェリーが行った義務性、無償制、非宗教性を原理とする学制改革(1881-82)は決定的な意味をもつ。

フランスは17世紀初めから海外進出を始め、北米、カリブ海、セネガル、インド洋に植民地を獲得したが(第一次植民地帝国)、イギリスとの競争に破れ1763年のパリ条約でカナダやインドを失った。再び海外進出が活発化するのは1830年のアルジェリア攻略からで、マグレブとブラック・アフリカ、南太平洋、東南アジアにまたがる第二次植民地帝国を建設するのは19世紀後半から1920年代にかけてである(1931年のパリ植民地万博が頂点)。中でも1880年代前半のジュール・フェリー時代は、テュニジア、マダガスカル、赤道アフリカ、インドシナに進出し、帝国の版図が最も急速に拡大した時期である。フランス革命の継承者として反教権主義を掲げ政教分離の進歩的共和国の建設にあたった第三共和政前期は、フランスが1870年の普仏戦争での敗北でアルザス・ロレーヌを失い、傷つけられたナショナリズムが新植民地の獲得にはけ口を求めた時代であった。

したがって第三共和政とは共和国と植民地帝国の二つの顔をもつヤヌス的存在であり、人種主義の研究で知られるピエールアンドレ・タギエフはこれを「共和国のジレンマ」と呼んでいる。植民地支配を正当化したイデオローグとしては「植民地化はフランスにとって死活問題である」と言った経済学者ルロワ・ボーリユーの存在が大きいが、ジュール・フェリー自身、進んだ文明国には遅れた民族を文明化する責務があるとする「文明化の使命」を唱えた。この「文明化の使命」は、フランス社会主義の創始者ジャン・ジョレスから後に人民戦線内閣を率いることになる社会党のレオン・ブルムの心を捉えたほど、進歩派の間にまで広く流布したイデオロギーである。

しかし「共和国のジレンマ」を最もよく代表するのは、1882年の講演「国民とは何か」がよく引かれるエルネスト・ルナンだろう。ルナンは、国民を、血統や言語や生物学的集団への帰属によってではなく、共通の理念の下に共に生きようとする人々の意志によって定義した(「国民とは日々の人民投票である」)。血統主義にもとづく国民のエスニック概念に対立するルナンの選択的国民概念は、出生地主義にもとづく民族や宗教の違いを超越した共和国型国民統合のカノンの位置を占めてきた。しかしルナンの一見普遍的な国民概念は、言語的にはドイツ系であるアルザス・ロレーヌのフランスへの奪還を隠された動機としたナショナリズムの表現だった。その証拠には、ルナンが普仏戦争の翌1871年に書いた『知的道徳的改革』には、優秀な西洋人種が黒人や中国人やアラブ人の劣等人種を制服し搾取するのは当然だとするあからさまな人種主義思想が開陳されており、マルチニックの黒人詩人エメ・セゼールは『植民地主義論』(1950)で西洋ヒューマニズムが生み出したこの「ヒトラー的言辞」を厳しく批判している。

第三共和政前期の1880年代が注目されるのは、植民地の拡大に伴って地理学が発達し、1880年にフランス語圏を意味する新語 francophonie がオネジム・ルクリュの『フランス、アルジェリアと諸植民地』に初めて登場し、1883年には「フランス外、特に植民地と保護領におけるフランス語普及を目的」としてアリアンス・フランセーズが設立されたことにもよる(ヨーロッパの外国人フランス語教師を対象とする夏季講座もこの頃始まっている)。ジュール・フェリーによって義務化された共和国の学校で国内の「方言話者」に対するフランス語教育が組織化されるのと並行して、海外の植民地にフランス語を普及する体制が整備され始めたのである(但し各種修道会やアリアンス・イスラエリット・ユニヴェルセルなどアリアンス・フランセーズに先行する海外のフランス語普及機関がなかったわけではない)。

フランスの海外進出は宣教師会によるキリスト教布教と相前後して行われ、その植民地経営は現地人を言語的文化的に同化する「同化主義(assimilation)」を特色とすると言われる。植民地人を宗主国の言語に同化することは、劣った人種を文明の域に引き上げる「文明化の使命」を果たす重要な柱だった。「セネガル狙撃兵」など植民地軍の組織化と参戦によって支払わされた「血の税金」もより完全な同化への道と考えられた(但し徴兵は全植民地で行われたわけではない)。その同化主義を徹底させ、本国と同じ市民権を要求して1946年フランスの海外県に昇格したマルチニックなど4つの「古い植民地(Vieilles Colonies)」の例は、イギリスなど他国の植民地には見られないフランス独特の同化主義の産物である。しかしクレミュー法(1870)によってヨーロッパ系ユダヤ人にのみ帰化が認められ、イスラム教徒は「原住民法(code de l'indigenat)」によって統治されたアルジェリアの例が示すように、植民地支配は差別的で同化主義は完全なものからはほど遠かった。

同化の鍵は宗主国言語の普及である。イギリスの間接統治に対し直接統治を原則とするフランスは、植民地行政や経済活動の補助要員を養成する必要から現地人へのフランス語教育に力を入れたと言われる。しかし、カリブ海やインド洋の奴隷制植民地では奴隷にフランス語を教えることは2世紀以上問題にならなかったし、また植民地に学校教育が導入されるようになってもその浸透度はまちまちで、セネガルの「族長の子弟学校(ecole des fils de chef)」に見られるようにごく一部の植民地人を教育して宗主国の支配に忠実なエリート層をつくる傾向が強かった。その中から植民地支配を告発する知識人や独立運動の指導者が生まれたのは皮肉である。

第二次大戦後フランスの海外領土の脱植民地化はしばしば熾烈な独立戦争の形をとり、1954年のインドシナ、 1960年のブラック・アフリカを経て、1962年のアルジェリアでサイクルを閉じる。植民地の独立後、セネガルのサンゴールやテュニジアのブルギバの提唱でイギリスのコモンウェルスをモデルにしたフランコフォニー運動が起こり、1970年に仏語圏の国際協力機関ACCTが設立される。ミッテラン左翼政権は1986年に第1回仏語圏サミットが開かれ(以後隔年)、フランスにとってフランコフォニーは国連安保理の常任理事国、独自核の保有、欧州統合と並ぶ重要な外交の切り札になっている。外相、文化相、あるいは海外協力相との兼務ないし担当副大臣としてフランンコフォニー大臣が置かれているのも、フランスの対外言語政策の特徴である。

しかし、フランス語が英語の後塵を拝しながら第二の国際語の地位を守っているにもかかわらず、フランス語を母語とする人口はフランスの人口の2倍の1億2千万(ほぼ日本の人口)に過ぎない。植民地獲得競争でイギリスに大きく遅れをとったこと、ケベックやアルジェリアを除けばフランス人が大量に移住した入植植民地(colonie de peuplement)が少なかったこともあるが、植民地帝国が広大で植民地毎に歴史も条件も違い、内務省・外務省・植民地省と管轄が一本化されず、言語同化政策が徹底しなかったためと考えられる。もう一つの要因はフランス語普及政策に伝統的なエリート主義である。18世紀にはベルリンやサンクトペテルスブルクを含むヨーロッパ中の宮廷でフランス語が使われたが、大衆レベルでの外国への浸透は皆無に等しく、フランス国内でさえフランス語話者は半分以下だったことは上で述べた。フランスが第二言語としてのフランス語あるいは外国語としてフランス語の教育普及に本格的に乗り出したのは、ようやく第二次大戦後の復興と植民地独立の後のことに過ぎない。

フランスは現在フランコフォニーと多言語主義を対外言語戦略の二つの柱にしている。乱暴に言えばフランコフォニーはアフリカの旧植民地向けのフランス語戦略で、フランス語使用を「共有」する仏語圏諸国での他言語との共生をうたっているが、言語文化面だけでなく政治経済協力を通してフランスの国際的影響力を維持する手段になっていることは否めない。このことはフランスの主導権が発揮しやすいが二国間ベースの海外協力予算が、フランコフォニー国際機構への出資額の20倍に及ぶことにもうかがえる。もう一つの多言語主義は言語と文化の多様性を守れというもっともな主張だが、もともとは加盟国の拡大によって英語支配が強まるEC内でフランス語の地位を守るため1980年代後半に出てきた戦略である。1993年秋のGATTウルグアイラウンドでの「文化特例」の闘いに見られるように(この問題はWTOの新ラウンドで必ず再浮上する)、フランスは欧州連合の枠や仏語圏機構を利用して英語支配に対する抵抗運動を組織している。

しかし、フランコフォニーにはフランスの文化的ヘゲモニー回復の意図が見え隠れする。テュニジア出身の作家アブデル・ワッハーブ・メデブは、フランスでポストコロニアリズムが思想の地平になっていないのは、フランス語の共有という美名のもとに文化的ヘゲモニーの再建が意図されているからではないかと問うている。また英語の language rights 「言語権」にあたるフランス語は存在せず、翻訳語もまだ定着していない。田中克彦は言語権についての理論が発展しえたのは、複数の言語の存在を前提として、愛や忠誠の対象としての「国語」を越えた機能的業務語としての「国家語」の議論を経験したところだけだと言っている。フランス語を話す者を出自の如何を問わず受け入れる共和国の同化主義は、普遍的な平等原理の究極の表現だが、フランス語への同化を強要して他者の言語を否定するとき、それは容易に言語帝国主義に転化する。フランス革命時の国内での言語統一政策と第三共和政下の植民地での言語普及政策が一続きのものだとはルイジャン・カルヴェ『言語学と植民地主義』(1974)のモチーフだが、この指摘は今日性を失っていない。国内の地域語の承認なしにはフランスの外に向けての多言語主義が本物にならないと言った所以である。

(本稿は西山教行の協力を得て成っている。)


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