言語的ヘゲモニー ― 「自発的同意」にささえられた権力

糟谷啓介
(一橋大学)

国際シンポジウム「言語帝国主義の過去と現在」 (1999年10月22日〜24日/於 日仏会館・一橋大学)

[目次]

[更新:1999-11-10]


発表要旨

言語はコミュニケーションのための中立的な道具にとどまったためしはない。現実のなかで言語は、一定の方向性をそなえた社会的力をおよぼしている。しかも、言語の外部にある社会的な要素が言語に「反映」するのではなく、言語そのものが社会的諸力のせめぎあいの場を形成している。

いうまでもなく、「ヘゲモニー」とは、イタリアの思想家グラムシ(Gramsci)がつくりあげた概念である。ディッタトゥーラ(dittatura)/ヘゲモニー(egemonia)という権力のふたつの様態は、政治社会/市民社会、政治的法的支配/知的道徳的指導、強制/同意、機動戦/陣地戦という一連の対立のもとにとらえられる。そして、最終的にグラムシは、国家を「強制の鎧をつけたヘゲモニー」と定式化した。

たしかに、しばしばおこなわれているように、ヘゲモニー概念を「市民社会における自発的同意にもとづく知的道徳的指導」と定義できないわけではない。しかし、ここでいう「自発的同意」が、すでに権力により媒介されていることを忘れるなら、ヘゲモニー概念は手ひどい歪曲をうける。ここでは以下の点を指摘しておきたい。

「政治社会/市民社会」「強制/同意」という二分法自体が、社会的力関係におけるヘゲモニーの帰結としてあらわれるのであり、ヘゲモニーの成立の根拠が上記の二分法にあるわけではない。その意味で、「同意」はヘゲモニーの根拠ではなく、その「効果」である。また、ヘゲモニーは社会的力関係の「毛細管的・分子的変動」であり、その前提は複数の社会的力の対立の存在である。ヘゲモニーの効果は非均質的であり、その作用は唯一の中心をもたない。しかも、ヘゲモニーを思いのままにあやつることのできる主体は存在しない。

ヘゲモニー概念が言語をめぐる考察から生まれてきたことは、こうした理解に示唆をあたえる。グラムシが出発点としたのは、政治的強制がないにもかかわらず、なぜ特定の言語の使用が拡大するかという問いであった。グラムシは、言語改新の伝播過程に権力作用の浸透のモデルを見たのである。そしてグラムシは、『獄中ノート』の最後の「ノート29」を「文法研究入門」と題し、(Lo Piparoの表現を借りれば)「政治権力と言語権力の同型性」をあきらかにしようとしたのである。

言語への考察をつうじて練り上げられたヘゲモニー概念を、今度は言語現象そのものにあてはめてみることができるだろう。言語帝国主義との関連で問題となるのは、複数の言語のあいだの力の不均等・不平等である。

たとえば、言語の取り替え(laguage shift)が話し手の「自発的同意」にもとづくならば、それは言語の「自然的」な変化であって、政治的抑圧とはなんの関係もないといえるだろうか。このような見方は、近代国家における権力の性質を見逃しているといわざるをえない。上でのべたように、ヘゲモニーは「同意」を根拠とするのではなく、「同意」を組織化する権力なのである。「小言語から大言語への言語の取り替え(language shift)は、話し手の『自発的同意』によって生まれる」という言説こそ、近代国家における支配的言語的ヘゲモニーの表現なのである。


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