カタロニア語と朝鮮語:同じ戦い

アンドレ・ファーブル
(INALCO)

国際シンポジウム「言語帝国主義の過去と現在」 (1999年10月22日〜24日/於 日仏会館・一橋大学)

[目次]

[更新:1999-11-10]


発表要旨

カタロニア語と朝鮮語の比較は、そもそもは筆者の出自と専門に由来するものだが、想像されるほど奇抜なものではない。言語帝国主義に直面して二つの言語のとった多くの行動の類似に驚かされるであろう。両者とも、存続を勝ち取り、抹殺の試みに対して見事に対処し、みずからを守ったのである。それは具体的には、言語をまもる学術的機関の創設、標準語の制定、文法の公布、辞書の編纂であり、とりわけ才能ある一群の著者による文学の再生であった。カタロニア人たちは、その言語に対して比較的寛容であった時期に、三つの段階からなる<前哨>により、上記の行動を開始した:まずカタロニア研究所(IEC)の創設(1907年)、ついでポンポー・ファブラのカタロニア語文法(Grammatica de la lengua catalona)の公刊(1918年)、これは1913年のおなじくファブラの手になる、「正書法」のIEC による公布後すぐに編纂されたものである。最後に、1932年の辞書(Diccioonari general de la llengua catalana)の編纂である。

朝鮮の人々は、彼らもまた同時期に植民地化され、それは1919年3月1日の独立運動の弾圧のように、さまざまな厳しい弾圧を伴うものであったが、のちにはそれに対抗したのであった:朝鮮語文法が1937年に公刊されている。「朝鮮語大辞典」編纂委員会についてみれば、それは1929年に創設されたが、しかしそのメンバー全員が1942年には日本の官憲により逮捕され、そのうちの二人(李允宰イ・ユンジェと韓澄ハン・ジン)は獄死している。そして朝鮮語学会が1931年に設立されたが、それは1911年にすでに日本政府により制定されていた朝鮮語の規範に対する対案を提示できたにすぎなかった。

日本の植民地支配者は、その言語抹殺の試みを極限まで押し進めたことは間違いない。朝鮮語を学校で教えることを禁ずるのみならず、町中での使用も禁じたのであり、あらゆる文書についても、民族語の根絶やしを求め、家庭の中まで徹底化を試み、家の中では日本語しか使用しないことを地域の警察に届けると一種の賞状をもらえるようなことまで行ったのである。カスティーリア語によるカタロニア語の抑圧は、より寛容であると同時に陰湿でもあったと思われる。「カタロニア語で吠えるな」、「帝国の(フランコの)言葉を話せ」と言われたのであった。しかし、1942年以後、一種の寛容主義にもどる。また興味深いことは、<共和制:カタロニア語の擁護/フランコ体制:カタロニア語の抑圧>というディコトミーは実際には存在していなかった。フランコ派の陣営では、モンセラートの聖母の王党派大隊のようにフランコに忠実な部隊があったが、そこでの兵士たちはお互いにカタロニア語を話していたし、他方では、コミュニストの指揮下の部隊があったが、そこではフランス国土の方言に対するあのグレゴワール神父が掲げた理由と同様の理由で、形式的にはカタロニア語の使用を禁じていたりするのである。

また同様に興味深いのは、これら二つの言語がどのようにして表現の自由へと回帰できたのかを検討することであろう。カタロニア語は、無事であるが、しかし、大いなるライバルであるカスティーリア語との近接に苦しんでいる。それによって、特に、「カタロニア語light」に関する動きが惹起されたのであった。逆に朝鮮では、国家の分断は二つの異なった標準語へとつながっていったのである。ソウルの話し言葉に基礎をおく<韓国語>と、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)では、ピョンヤン方言にもとづく<文化語>である。特に後者は金日成による産物であり、彼はそれを<帝国主義者とその手先>達のアメリカ主義や日本主義に毒されていない革命の言葉としようと欲したのである。


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