北アフリカでは、アラブ語化とは全く異なる二つの現実を包摂しているのである:
- 一方では、言語の代替という歴史的趨勢である。それはアラブの征服(8世紀初頭)以来続いている。爾来、ベルベル語--北アフリカの原住民の言語--は常にアラビア語の前に、後退を余儀なくされている。ベルベル語は、それがかつて広がっていた地域全体において少数派になった時、その逃避先の地域、特にアルジェリアとモロッコの山岳地域に、局限されたのである。この言語の置換のプロセスは、アラビア語が13世紀以来北アフリカで占めてきた政治的・象徴的レベルでの支配的地位により説明される。アラビア語は実際、常にそうであったし、またありつづけているのだが、同時に権力の言語であり宗教の言語であり、書き言葉であり知識の言語であり、都市の言語である。これが、徐々にベルベル人をして、アラビア語のゆえに彼ら自身の言語を捨てるようにさせているのである。
- 他方では、マグレブ諸国の言語政策がある。この政策は、それら諸国の独立以来立てられた政策であるが、まず植民地化の言語であるフランス語に対して、公的な分野のあらゆる領域(政治、行政、司法、教育、文化等々)でそれをアラビア語に置き換えようとするものである。しかし、平行して、ベルベル語はいかなる政治的認知も受けておらず、公的生活、特に教育から駆遂されていたのである。このアラビア語化政策はそれ故、ただちに多くのベルベル語使用者により、彼らの言語、彼らのアイデンティティーに対する攻撃ととられた。言語問題を巡るこうした緊張状態はモロッコよりアルジェリアで強かったが、おそらく、それは多くの歴史的理由として、アラビア語化政策が、アルジェリアで、より徹底し、より攻撃的で、あきらかに反ベルベル的であったからである。
こうして、この三十年間、アルジェリアのベルベル語使用者(特にカビリア人)たちの間で非常に強力な言語的文化的抵抗の潮流が進展したのである。それは、芸術家(歌手、作家など)、知識人と大衆をも同時に動員するものであった。1980年以来、この流れは、明確にベルベル語の法的認知を要求するかたちをとった(ベルベル語--アラビア語ととも--国民の公的な言語)。この言語的要求の将来とその政治的可能性は、一般的に非常に困難かつ複雑なコンテキストにおいては、なお不透明である。しかしベルベル語使用住民は、今や、彼らの特徴を示す主たるパラメーターとしてのその言語を擁護していくことを決意したのである。
言語学的観察者にとって、ベルベル語にのしかかる主たる脅威はむしろアラビア語化への「内発的な」歴史的社会学的動きにあることは明らかである。それは、住民間の混交、農村からの人口流出、都市化など常にアラビア語化に有利に作用する要因によって強化されているのでなおさらである。それら諸国の言語政策が、たとえどれほど攻撃的でも(ジェノサイドを除いてではあるが)、中長期的にはある言語の存続にマージナルな影響しか持ち得ない時、少なくとも、ある言語がベルベル語のように数百万の人々に話されている時には、そうした動きが主たる脅威であるのだ。
そのとき問うべきことは、ベルベル語のような少数言語、本質的に話し言葉であり、農村の伝統に根ざす言葉は、それに対していかなる点でも好ましくない、あるいはむしろ敵対する状況にあって存続可能なのか、あるいはどのような条件で存続可能なのかを知ることである。