母語、国語、国家語

ルイ=ジャン・カルヴェ
(プロヴァンス大学)

国際シンポジウム「言語帝国主義の過去と現在」 (1999年10月22日〜24日/於 日仏会館・一橋大学)

[目次]

[更新:1999-11-10]


数ヶ月前のことだが、1999年4月、セネガル国民議会での新しい内規の採択は議論の混乱を引き起こした。というのも、議会の事務局のメンバーと議長ならびに委員会の報告者は議会の作業語であるフランス語を読め、書けなければならないと規定する法案を数人の代議士が提出したからである。

この論争は国の知識人にも拡がり、法案は結局却下されたものの、これは奇妙な記号学的やりとりを引き起こした。というのも、議論の中心は識字能力を持たない代議士のことであり、それも議会の作業語と定められているフランス語の識字能力を持たない人々が問題となったのだ。ところで、フランス語はセネガルの公用語であり、セネガルはそのほかに全国でリストアップした二十ほどの言語の中の六つを国語と認めており、残りの言語は公的ステータスをもっていない。

公用語、国語、作業語、母語、それに国家語という表現も付け加えて、開会のセッションのタイトルとするのだが、この一連の形容詞は現実的で一義的な内容をもっているのだろうか。

まず母語から始めよう。これまでにもしばしば述べたり、書いているのだが、私は「母の」という形容詞を拒否する。というのも、ドイツロマン主義から生まれたこの形容詞句は、「母親」さらにはある比喩として「母乳」というものが、言語の伝達を保証するとわれわれに信じこませようとしているからである。異なる言語を使うカップルの様々な状況を分析すると、子供が母親の言語を受け継ぐ、これは確かにそうであるが、また父親の言語や、さらには父親のものであろうと、母親のものであろうと、またいずれのものでもなかろうと、社会環境で支配的な言語も受け継ぐのである。そこで私は第一言語とよんだ方がよいと思う。

セネガルの代議士たちの第一言語が何であるのかわからないが、大多数はウォロフ語を、それからほかの国語(プール語、セレール語、マリンケ語など)のどれかを、たぶん何人かはマンジャク語やバサリ語など国語と認められていない言語を第一言語にすると思われる。したがって、ここには二つの集団がある。第一の集団は第一言語の集団であり、国内で話されている言語集団であり、そこには六つの国語がふくまれる。この国語というステータスは政令により定められたもので、現在のところタイトルの区別にすぎない。もう一つは公用語、または国家語である。

しかしこの階層化は国内の現実の言語状況を理解するのに十分ではない。というのも、国語のなかには、支配的な媒介語の役割を果たしているウォロフ語という言語があるからだ。ディウラ語、マンデング語といったほかの言語は、たとえばカザマンス地方のような、ある地域での媒介語の役割を果たしている。マンデング語やプール語のような、他の言語は約十カ国で第一言語として、あるいは媒介語として話されている超国家語なのである。

今ここで、アフリカのフランス語圏16カ国を考えてみれば、その大多数は公用語(国家運営のための一つないしは複数の言語)と国語の対立のうえに運営されていることがわかる。これらの国でごく一般的な区分はほかの地域ではほとんど広まっていない。北のフランス語圏の国をみると、ベルギーには三つの共同体(フランス語圏、フラマン語圏、ドイツ語圏)と四つの言語地域があり、カナダには二つの公用語(英語とフランス語)があり、フランスには一つの「共和国の言語」があり、ルクセンブルクには一つの国語(ルクセンブルク語)と一つの「立法府語」(フランス語)があり、三つの行政・司法語(フランス語、ドイツ語、ルクセンブルク語)があり、スイスのみは四つの国語(ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語)を認め、そのうち三つは公用語である(ロマンシュ語はこの役割からはずされている)。公用語の概念の意味はよくわかるだろうが、それに対して国語の概念はずっと流動的で、国によって変わる。ある場合、国土で話されている一部の言語であったり(セネガルでは六つの国語、ザイールでは四つの国語)、他の国ではすべての言語であったりする(カメルーンのケース)。したがって前者の国で、ある言語を国語と分類することは言語政策の選択にあたり(さらに言語計画への移行であるかもしれない)、後者での分類は一種の飾りとなる命名にすぎず、実際の役に立つわけではない(というのも、カメルーンにある200の言語に対してどのようにして言語計画を進めるというのか)。公用語の数に関してもう一つ着目することがある。フランス語はこれら十一ヵ国で公用語の機能を満たす唯一の言語だが、五ヵ国(ブルンジ、カメルーン、中央アフリカ、ルワンダ、チャド)ではもう一種類の公用語が共存している。この第二の公用語は植民地時代に起源をもつ異なる言語かもしれないし(カメルーンでの英語や、ある意味ではチャドのアラビア語)、また支配的な媒介語(中央アフリカのサンゴ語)、ないしは国の統一言語(ルワンダのキニャルワンダ語やブルンジのキルンジ語)かもしれない。さらに二つのケース(中央アフリカとチャド)において、この共存は言語政策の選択によるもので、フランス語のみが公用語の役割を果たしていた時代の後に、アラビア語とサンゴ語が公用語として付け加えられた。

したがって、この集団における公用語のステータスはさまざまな次元に基づく。第一言語(母語)は受け継いだり、自然と獲得したものである。媒介語は社会的実践の産物であり、国家語(と呼んだり、国語また公用語と呼んでもいいが)は権力によって制定されたものである。そしてこれらさまざまな言語間の力関係は様々な方法で読みとれる。

たとえば、「引力モデル」(カルヴェ1999)を用いれば、言語の役割を埋め込み構造によって表象することができる。言語がバイリンガルの話者によって結ばれており、バイリンガルのシステムは力関係によって定められているのだから(たとえば、モロッコでのアラビア語とベルベル語のバイリンガル話者では常にベルベル語が第一言語であり、セネガルでのウォロフ語とフランス語のバイリンガル話者では常にウォロフ語が第一言語であることなど)、言語間の関係を「引力」によって表現することができる。たとえば、フランス語圏のアフリカでは、フランス語という「超中核」軸言語の周りをほかの言語が取り巻いている(他の言語の話者もフランス語を話すことが多いのだが)、「中核言語」は今度は自分たちが「周辺語」という新たな言語の引力の中心となる(さらに別の言語もある。また世界の引力の中心はもちろん英語というハイパー中核言語である)。超中核言語、中核言語、周辺言語というこの三つのレベルは、先ほど解明した公用語と媒介語、第一言語の機能に対応しているのだ。

そこでもしよろしければ、今一度セネガルの話に戻りたい。1999年2月のこと、私はラジオでの「意見とコミュニケ」の料金表に興味を持った。というのも、それはコミュニケが書かれた言語に応じて変わるからだ。たとえば、ラジオ・タンバクウダではアフリカ諸語の文書に対して20フランCFAを求めるが、フランス語では200フランCFAを求め、国営ラジオ番組ではそれぞれ110フランCFAと220フランCFAを求める。この価格差は二つの視点から分析できる。フランス語は国語よりも価値があると考えているか、あるいは価格を下げることでセネガル人に国語でコミュニケを作るよう勧めているかだ。しかしこの二つのケースで、解釈がいかに優れていようとも(私はこの二つの解釈を同時に選ぶのだが)、この状況はある創造的な比喩を生み出してくれるかもしれない。というのも、通貨も同じような記号論的ステータスをもち、アイデンティティーのしるしのように機能するからだ。古くからの国家、とりわけヨーロッパ諸国は、国名と市民の名称、言語名が同一のパラダイムから発生していると考える傾向があるように(たとえば、フランスにはフランス語を話すフランス人がおり、イタリアにはイタリア語を話すイタリア人がおり、スペインにはスペイン語を話すスペイン人がいるといった具合に)、通貨もわれわれの表象においては、国や国籍、つまり言語に結びついている。マルクはドイツのものであり、リラはイタリアのもの、円は日本のもので、ペセタはスペインのもの、ドルはアメリカのもの、ポンドはイギリスのものなどと、ドルやポンドが英語を話し、円は日本語を、マルクはドイツ語を、(フランス)フランはフランス語を話すと比喩的に言えるのではないか。

ところでわれわれはヨーロッパの変動の前夜にいる。国の通貨がユーロという共通通貨に代わり、来るべき将来にはある場面が使われなくなるのを予想できる。人々は同じ通貨でものを買ったり、売ったりするが、この通貨の名称を同じようには発音せず、それぞれの隠語では異なった名称で呼び、同じ言語を話さなくなる。たとえばあるフランス人はミュンヘンでビールを、ローマでカプチーノを、バルセロナでタパスを、アテネでウゾをユーロで支払うことになるだろうが、彼は何語で注文するのだろうか?

通貨の共存はしばしばみられる。たとえば、キューバや北京でドルは現地通貨を倍増させる第二の通貨であり、この共存は二つの社会階層を作る。観光産業と関係を持ち、ドルを入手できる人々とそうできない人々を作り上げる。ところで、キューバ人や中国人がドルを入手しようとすると、たいていの場合英語で頼むことになる。国際媒介語は国際通貨とペアーであり、帝国の通貨は帝国の言語と手を携えて歩む。もちろんこれは比喩にすぎない。だが、このイメージによるドルとキューバ・ペソの関係は、国家語や国際語と母語の関係と同じなのである。その結果は実力行使で分かる。コーヒーの出し殻から将来を予言するわけではないが、ユーロの背後に隠れて、ヨーロッパ統合の言語が進んでいるのかどうか、私にはわからない。しかし、この議論のテーマに立ち戻れば、私があげた通貨の比喩に照らし合わせて、われわれは母語の運用廃止ならびに国家語やいくつかの国家の言語を過大評価する傾向を生きているといえる。そのときに、たとえばドルと英語のような金銭と言語の関係を破ることができるのかが課題となる。あるいは、最後に先ほどの比喩をやめるのなら、グローバリゼーションと言語の関係はどのようなものか、この関係にどのように介入できるのかを考えること、これがわれわれの課題なのである。


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