国際シンポジウム

Between War and Media 集中討議:戦争とメディア

2002年3月25,26,27日/於 日仏会館ホール
JR山手線・地下鉄日比谷線 恵比寿駅下車 徒歩12分
入場無料/同時通訳付き/先着順(定員150名)
主催:日仏会館,戦争とメディアシンポジウム実行委員会
共催:東京大学社会情報研究所
助成:国際交流基金,在日フランス大使館,フランス国立高等研究院

[最終更新日:2002-03-19]


英語版プログラム

開催宣言

20世紀は戦争の世紀であった。2つの世界大戦からベトナム戦争や世紀末の湾岸戦争に至るまで,戦争は20世紀という時代を縁取る輪郭をなしてきた。そして,映画やラジオ,ポスターや新聞の写真報道からテレビ,近年の衛星通信やインターネット,湾岸戦争での情報の徹底した操作まで,戦争をめぐるこの世紀の欲望や意識,記憶は,同時代のメディアと広く,深く結びついてきた。他方,メディアの側からみても,20世紀におけるメディアの発達にとって戦争は革命的な契機をなしてきた。メディアの世紀としての20世紀と戦争の世紀としての20世紀は,相互に不可分に絡まり合ってきたのである。

振り返るなら,そもそも20世紀は,19世紀の限定戦争モデルを覆した総力戦=第1次世界大戦によってはじめて幕を開けた。総力戦という戦争形式は,国民国家の社会編成を根本的に転換させることになった。そして,この総力戦のシステムによって徹底的に遂行された第2次世界大戦とそこでのホロコーストは,文明に対する根底的確信すら崩壊させるような,人類始まって以来の自己破壊をもたらした。

戦後もまた,「過剰な死」の可能性を蓄積した冷戦下での核の均衡,ポストコロニアル状況における無数の非正規的ゲリラ戦から,死をスクリーン上のブリッツの消去へと縮減した湾岸戦争,「純粋な戦争」の観念をはじめて実現したかのように語られたコソヴォ空爆まで,戦争は20世紀後半を通じても成長し続けてきた。その道程の一つ一つにメディアは深く関与し,逆に戦争のメタモルフォーゼに深く規定されながら増殖もし続けてきた。

そして今,わたしたちは,そうした戦争とメディアが結合した究極的な形態を,21世紀のとば口で目撃している。いや,すでにわたしたちはその「戦時下の人びと」となっているのかもしれない。2001年9月11日の出来事に端を発し,現在,「アフガン報復戦争」の成り行きを,大方の人びとは,CNNやアルジャジーラなどのトランスナショナルな衛星メディアを介することで知っているし,またそうすることではじめてこの「戦争」について表象できている。それどころか,そもそも9月11日の出来事は,最初からテレビカメラに撮られることを前提に計画され,「演出」されていたことは明らかである。すべてがメディアの中にありながら,三千人の命が一瞬のうちに失われた。

始まった「戦争」の帰趨はいまだ明瞭ではない。この「戦争」が世界規模での戦争となってしまうにしろ,それともこれまで予想できなかった新たな様相が開けてくるにしろ,いずれにしろそこでは,メディアがわたしたちの世界認識の本質的な構成条件となっていることは間違いない。戦争は,つねに異様な出来事として,わたしたちを新たな認識と知覚の地平に引きずり出してしまう。だがこの知覚の地平そのものに,メディアはますます不可避的にかかわるようになっているのだ。

それだけではない。世界貿易センタービルに対する攻撃の後,瓦礫の山と化した現場を中心にして,ある弔いの形が広がっている。マンハッタンは突然「戦場」として語られはじめ,そこでの死者たちはアメリカの無垢な死者として,英雄的な戦死者として,無数の星条旗に飾りたてられている。高層ビルに突入する航空機の映像は,かつてのケネディ狙撃やチャレンジャー号爆発事故のシーンと同じように,いやそれらを凌駕する緊張度において,アメリカの記憶,ナショナルな図像となった。こうした「テロの記憶」,「戦争の記憶」は,新しい集合的記憶として生み出され,操作され,根を張り始めている。肉親や恋人を失った人びとの真正な悲しみと,それをナショナルな顕彰記念行為の技法へと水路づけようとする作用とがせめぎ合い,そこに出来事のパブリック・メモリーが作られようとしている。しかし,そうした喪のかたちが,同時にまた,別の死者たちに対する深い文化的忘却ともなるということに,人びとはどれだけ細心でいられるだろうか。

このような問題意識をもってわたしたちは,来る2001年3月25日から27日までの3日間,「Between War and Media(集中討議:戦争とメディア)」と題する国際会議を日仏会館において開催し,戦争とメディアの関係を歴史的,視覚的,批判的,そして今日的に解明することを企てた。

本会議は,まず参加者全体で,2001年9月11日の出来事以降の状況を踏まえた視座から20世紀における戦争とメディアの関係を問い直し,それを3日間の議論の出発点とすべく,コロンビア大学の歴史家,キャロル・グラック氏の基調講演でスタートする。

続いて,4つのセッションを設定している。第1セッションは,「映像の戦争/戦争の映像」と題し,装置としての映像メディアと出来事としての戦争の入り組んだ関係を歴史的な視座から再検討する。第2セッションの「記憶のメディア/戦場の語り」では,戦争と集合的記憶,その媒介としてのメディアに焦点をあてる。第3セッションは,「メディアの危機から対抗的メディアへ」と題し,グローバル化とナショナリズム,そして戦争や紛争が絡まりあう今日の状況下でのメディアの危機の深さを測定し,あわせてそこにある希望を考えたい。そして第4セッション「戦争とメディアのあいだ」は,基調講演で提示された問いが,それぞれのセッションでどのように解明されたのかを振り返り,暫定的な結論を提示していきたい。全体として,第1日の基調講演を受けて,第2日の2つのセッションでは,歴史的な展望のなかで20世紀における戦争とメディアを捉え直し,第3日の2つのセッションでは,現在の視点からその問いを深めていくことを目指している。

3日間に及ぶ討議の合間には,会議のテーマに関連の深い映像作品の上映や,東京大学社会情報研究所が所蔵する戦時プロパガンダ資料の公開も予定している。


プログラム

第1日 2002年3月25日(月)
18:00-20:30
  • 基調講演:キャロル・グラック(コロンビア大学)
    • 「この像のどこがおかしい? 20世紀と21世紀の戦争とメディア」

  • 司会:ピエール・スイリ(日仏会館)
第2日 2002年3月26日(火)
セッション1:「映像の戦争/戦争の映像」
10:00-13:00
  • 生井英考(共立女子大学)
    • 「災厄の映像――写真・トラウマ・戦争」
  • エレーヌ・ピュイズー(フランス国立高等研究院)
    • 「テレビの日常的映像からイマジネールなものの生成まで:湾岸戦争と9/11のテロ攻撃により始まった紛争を例に」
  • アーロン・ジェロー(横浜国立大学)
    • 「戦ふ観客――大東亜共栄圏の日本映画と受容の問題」

  • 司会:成田龍一(日本女子大学)
20世紀は映像の時代であり,戦争は銃だけでなく映像によって争われてきた。プロパガンダ映画から軍部によるテレビニュースの報道規制までにおいて,何をいかに見せるかが,国内外における人々の信頼の獲得や,国民と兵隊,味方と敵を形成する戦いの中心的な要素となっている。9月11日の出来事は,それを生中継で報道した技術で形成されたと同様に,それに次いだ戦争においてアルジャジーラの操作は,アフガン標的の可視化と同じレベルで重要視されている。映像メディアの装置は,プロパガンダの道具だけではなく,新しい戦争方法を可能にしたとともに,それに対応する知覚ロジステックの変化をも実現している。このセッションは戦争とその暴力が映像においていかに表象されているかを問うだけでなく,9月11日の現状の土台になった20世紀のメディアが,装置の分節化のレベルにおいても,いかにして戦争の映像の生産・配信・受容のありかたを変えてきたかという問題をも歴史的に追究する。
セッション2:「記憶のメディア 戦場の語り」
15:00-18:00
  • 木下直之(東京大学)
    • 「先の戦争の中の先の戦争の記憶」
  • ベアトリス・フルーリ=ヴィラット(ナンシー大学)
    • 「フランスのテレビとアルジェリア戦争の記憶」
  • ジャック・ワルテール(メッス大学)
    • 「ナチの強制収容所,絶滅収容所の証拠写真:今日の論争の焦点」
  • マリタ・スターケン(南カリフォルニア大学)
    • 「テロルの記憶:オクラホマシティーとニューヨークにおけるアメリカのメモリアル化」

  • 司会:岩崎 稔(東京外国語大学)
このセッションでは,解読が容易ではない戦争の記憶を解明する。戦争が生み出した憎悪の記憶,痛みの記憶,凍てついた記憶は,長い年月にわたってゆがみ,ねじくれ,抑圧され,およそ言語化されない傷痕やブランクとして,人びとの時間性に取り憑く。このテーマをめぐる3報告のうち,まずは東京大学の木下直之氏が問題を歴史的に遡及し,20世紀の戦争のなかで先行する日露戦争や日清戦争の記憶がいかに形成され,活用されたのかを明らかにする。ついでナンシー大学のベアトリス・フルーリ=ヴィラット氏が,アルジェリア戦争をめぐり,植民地主義の暴圧と解放戦争の記憶がその後メディアのなかでどのように構成されてきたのかを論ずる。そして,この2つの先行例を背景にしながら,さらに9月11日以後の状況を参照しつつ,メディアにおける集合的記憶のメカニズムを掘り下げる作業を,南カリフォルニア大学のマリタ・スターケン氏が引き取ることになろう。
第3日 2002年3月27日(水)
セッション3:「メディアの危機から対抗的メディアへ」
10:00-13:00
  • 米山リサ(カリフォルニア大学サンディエゴ校)
    • 「『ポスト冷戦』の終結と日本の『人道に対する罪』のアメリカ化」
  • 北原 恵(甲南大学)
    • 「皇室報道と戦争」
  • テッサ・モリス−スズキ(オーストラリア国立大学)
    • 「テロルの時代のバーチャルな平和運動:マウスはミサイルより強いか」

  • 司会:吉見俊哉(東京大学)
初日,第2日の議論を通じ,戦争が20世紀を通じていかにメディアとともにあり,またメディアを通じて表象されてきたかが示されてきた。20世紀を通じ,メディアは単に戦争を外側から記録し,報道していたのではない。むしろメディアは戦争の一部となり,戦争を定義し,表象し,その記憶と様々な再演を媒介してきた。このセッションでは,前日のセッションでの歴史的な展望を受けて,現在の視点から問題を捉え返し,今日のメディアや諸々のメディア表現における戦争の表象化の問題を,従軍慰安婦問題や性暴力,天皇の戦争責任,戦争表象におけるジェンダーと帝国/植民地,メディアのグローバル化とテロリズム,そのなかでのメディアの危機と可能性,「アフガン報復戦争」とメディアといった諸点をめぐり,現在からの問いと歴史的な展望を交差させながら議論していきたい。
セッション4:総括討論「戦争とメディアのあいだ」
15:00-18:00 司会:岩崎稔・吉見俊哉

パネリスト:
   セバスチャン・コンラート(ベルリン自由大学)
   キャロル・グラック
   ベアトリス・フルーリ=ヴィラット
   アーロン・ジェロー
   マリタ・スターケン
   テッサ・モーリス−スズキ
   姜尚中(東京大学)
   成田龍一       他
3日間を通じて出てきた問題を総合的に討論する。まず,ベルリン自由大学のセバスチャン・コンラート氏が,各セッションで出てきた論点を整理する役を引き受ける。それをもとに,基調報告者と3つのセッションの代表が,再度問題の展開と総括を試みる。それらを通じて,たとえば次のような課題に対する暫定的な結論を提示していきたい。
  1. 戦争の世紀としての20世紀と,メディアの世紀としての20世紀の複雑な絡まりあいを,欧米とアジアの両方を視野に入れつつ,しかもプロパガンダ,映像,記憶,記念碑など,一連のメディア装置の特殊性に即して適切に位置づけること。
  2. 日本軍のアジア侵略,従軍慰安婦問題,天皇裕仁の戦争責任,また朝鮮戦争からベトナム戦争までのアジア内戦とアメリカの支配まで,これらに関連する一連の戦争の語りが抱えている諸問題を,ポスト冷戦期の現在の視点から適切に位置づけること。
  3. 9月11日の攻撃以後の状況認識に基づきつつ,現在の戦争とメディアの関係がいかなる段階にあり,どのような逃走,抵抗,対抗の可能性がありうるのかについてのクリティカルな展望を適切に提示すること。

問い合わせ先:日仏会館フランス事務所
〒150-0013 東京都渋谷区恵比寿 3-9-25/TEL 03-5421-7641


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