中世の中国における写経

ジャン=ピエール・ドレージュ(フランス極東学院院長)

シンポジウム「文字文化の再創造」,2001年4月7日,日仏会館ホールにて

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[更新:2001-03-30]


発表要旨

 中世中国の仏教経典の書写について、本稿ではこれを経典の中国語翻訳に固有の書記分析としてではなく、当該写経が為された諸条件を俯瞰する一環として考察する。その全体像をとらえるには写経そのものに依拠するのはもちろんであるが、それ以上に、20世紀初頭以来とりわけポール・ペリオットとオーレル・スタインが、敦煌を中心に西域で発見した写本の奥書にも依拠する。これらの写本の一番古いものは、仏教経典が初めて中国語に翻訳されてから1世紀も経ないうちに作られている。

 本稿では、3世紀以降成立した仏教経典総体の書写がどのような時に、どんな条件で行われたのかを明らかにしたい。その場合、敦煌で発見された写本から得られる知見を、奈良正倉院所蔵の資料によって補完することも可能である。かくして、写経作業が当時どのように組織されていたのかを一層明確にできるであろう。そこには聖職者と一般信徒が参加していたが、大掛かりな作業の場合には所管の帝国官僚全員が加わることも多かったのである。

 なお、膨大な仏教経典の書写の他に、個人的な発意から行われた奉納写経にも注目したい。その際はそれぞれ経1つだけ、あるいは1巻だけの書写にとどまることも珍しくなかった。また、こうした寄進者は職業的代書人にも写経作業を依頼していた。確かに職業的代書人の仕事ぶりには疑わしいところがあったにしても、この種のケースも取り上げる価値があるだろう。


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